「歌合」あれこれ(4/26古上-3)


紀友則の名歌

さて今回は「十訓抄」から

寛平の歌合(うたあはせ)に、初雁(はつかり)を、友則、

春霞かすみていにし雁がねのいまぞ鳴くなる秋霧の上に

と詠める、左方(ひだりかた)にてありけるに、五文字を詠じたりける時、右方(みぎかた)の人々、ことごとく笑ひけり。さて、次の句に、「かすみていにし」と言ひけるにこそ、音もせずなりにけれ。

 

【寛平年間(889-898)に行われた歌合わせの際に、「初雁」の課題を、紀友則が

「春霞とともにはるかかすんで去っていった雁が、今まさに鳴いているようだよ、秋霧の上に」

と読んだ折、(友則は)左方であったのだが、初句(の春霞)を朗詠したとき、右方の人々は、みんな笑った。そうして、二句に「かすみていにし」と(友則が)言ったときには、声も出さなくなってしまったことよ。】

ちょっと解説が必要ですかね、「和歌」においては、季節感が非常に重視されます。季節を外した和歌っていうのは失敗作なわけですね。秋の季節を表す「初雁」という題で和歌を詠まなければならないのに、友則は「春霞~」から詠み始めた。それを聞いた人々は「おいおい季節が違うじゃないか」と思って笑ったわけです。ところが二句の「かすみていにし」の句を聞いて「あっ」っと気づいた。「いに」の「し」は過去の助動詞連体形です。「そうか、『春霞』は過去の話だったのか!そこから『秋』につなげるつもりなのか!!」そう思った人々は早とちりして笑ってしまった自らを恥じて黙ってしまう…という場面です。

なお紀友則は平安時代に活躍した歌人で、「古今和歌集」の選者の一人としても有名ですね。古今集の選者は友則のほかに3人、覚えていますね

→正解はこちらをクリック≪紀貫之・紀友則・凡河内躬恒

本文はこの後「人の話を最後まで聞かないで笑うなんてよくないよね、それにもし他人が本当に間違ったとしても、自分が困るわけでもないのに無理にケチつけてどうすんのよ」というふうに使うわけですけど。

今日はこの文章の舞台となった「歌合」について、少し書いてみましょう

歌合ってどういうもの?

歌合―wikipedia

歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。

と、いうこと。まあ今風に言えば紅白歌合戦みたいなものです。歌人を二つのチーム(右方・左方)に分け、予め与えられた題に沿う歌を互いに詠んで優劣を競う遊びです。

もともとは「遊び」ではありますが、天皇の御前で行われるような大規模で格式の高い歌合ともなると、参加すること自体が歌人にとっては大変な名誉であり、また逆にその晴れ舞台で下手な歌を読もうものなら末代までの恥。また当時の和歌は貴族として当然の嗜みであり、その巧拙が出世に直接かかわることも…というわけで「歌合」をめぐる歌人たちの様々な逸話が生まれました。以下、いくつか紹介しましょう。

 

壬生忠見と平兼盛―天徳歌合―

村上天皇の午前で行われた天徳歌合(960)での出来事…

この両者が歌合で対戦することになりました。歌題は「初恋」

この時、壬生忠見が詠んだ歌がこちら

恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

【「恋をしている」という私の評判は早くも立ってしまった。人知れず(あの人を)想いはじめたのに」】

うん、いい歌ですね。初々しい初恋!!「おい、あいつ○○ちゃんのこと好きらしいぜ!!」「知ってる知ってる、バレバレだよなw」「いつも目が追ってるもんなw本人あれでばれてないと思ってるのかなwww」

あー恥ずかしい恥ずかしい!!現代を生きる皆さんの中にも、身に覚えのある人、いるでしょう。

 

忠見もこの歌に相当自信を持っていたようで、「さすがの兼盛もこれほどの歌が詠めるはずもない」と高をくくっていたようです。対して兼盛が詠んだ歌は…

つつめども色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

【隠しても、様子に表れてしまっていたことだよ、私の恋は。「物思いをしているのかい?」と他の人が問うくらいに。】

これもまた…いいですねえ、実にいい。

「ねえ、最近ちょっと様子がおかしいよ?なんか悩みでもある?」

「え…べっべつに悩みなんて…い、いつも通りだよ…」

「だって…私が話しかけても目そらしたりとか…ひょっとして私、なんか気に障ることとかした?だったらごめん、気が付かなくて…」

「いやいやいやいやそんなことない、全然ない、大丈夫!!」

「本当?じゃあどうして?何でも相談してよ、私たち二人の仲でしょ?」

「ええっと…実は俺…君の…いや、なんでもない、なんでもないからっ!!」

「ちょっともう、なんなのよ!!やっぱり私なんかした?」

「ちっちがうそういんじゃなくて…あ、いけない今日は用事あったんだじゃあさよならっ!!!」

「あっ、まちなさいよっ、まだ話は!!…行っちゃった、変なやつ…結局何が言いたかったのかしら…」

みたいなほら、青春模様!!!青春模様!!!

さて、この二人の歌、ともに素晴らしい名歌であったので判者たちもなんとも判定がつけられず、そっと村上帝の様子をうかがうと、帝はまず忠見の「恋すてふ…」の歌を2,3度口ずさみ、次いで兼盛の「つつめども…」の歌を何度も口ずさんでいらっしゃる。どうやら帝のお気持ちは兼盛の側である…ということで勝敗が決しました。

会心の歌で敗れた忠見のショックは大変大きく、そのまま食事ものどを通らず病の床に就き、やがて亡くなってしまったとか。

以上の逸話は鎌倉時代の説話集「沙石集」によるもので、どこまで史実に忠実なものかは定かではありませんが、それでも歌人たちの「歌」への執心が、時に命にすら関わるようなすさまじいものであった…ということは伝わってきますね。なおこの忠見と兼盛の歌はともに「拾遺和歌集」に残り、またかるたとしても知られる「小倉百人一首」にも四〇番と四一番に並んで収められています。

小式部内侍の機転

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さて、この人とちょっとだけ関係する記事です。

清少納言や紫式部と同時代の女房に和泉式部、という人がいます。前二人に負けず劣らず才を備えた女性で、歌人としても非常に名高い人でした。その和泉式部の娘がこの項の主役、小式部内侍です。

この小式部内侍も早くから和歌の才を示しますが、出る杭は打たれるのは今も昔も変わらぬもの、「小式部の歌は、じつは母親の和泉式部に代作してもらっているのだ」という中傷めいた噂が絶えなかったようです。

そんな時、小式部は歌合わせのメンバーに選ばれます。そのニュースを聞いた藤原定頼(この人も有名な歌人で、小倉百人一首にも歌が採られています)、からかい半分に「(当時母の和泉式部が夫とともに住んでいた)丹後(現在の京都府北部)への使いは戻ってきましたか。ずいぶん気がかりでしょう」などと小式部に声をかけたそうです。

それを聞いた小式部がとっさに言い返した歌がこちら

大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立

これはまた…素晴らしく技巧を尽くした歌なんです。以下少々解説しましょう

まず、「大江山」「生野(いくの)」というのは都から丹後へ向かう道中の地名です。「天橋立」は丹後の名勝地、後世には「安芸(広島県)の宮島」「陸奥(宮城県)の松島」とともに「日本三景」にも挙げられる地です。

このあたりの、和歌によく詠みこまれる地名を「歌枕」と呼びます。歌枕についての知識をしっかり持っているか、それぞれの歌枕に付随するイメージを生かしつつ、いかに和歌に詠みこむか…というのが、歌人の腕の見せ所。こんなふうに無理なく、三つもの歌枕を読み込んだ歌は結構珍しいんです。

この和歌に組み込まれた技巧はそれだけじゃありません。「いくの」には「生野」のほかに「行く」の意味が、また「ふみもみず」には「踏み」と「文」の意味が掛けられています。一つの言葉に複数の意味をかける「掛詞(かけことば)」の技法ですね。

以上を踏まえつつ歌を解釈するとこんな感じ

【大江山を超え、生野を経て行く道のりは遠いので、未だ私は天橋立のある丹後の地を踏んだこともありませんし、そこに住む母からの手紙(=文)も見ていませんよ】

小式部はこれだけの技巧を尽くした歌を、しかも即興で詠むことで自らの和歌の才が本物であることを見事に示したわけです。

ちょっとしたからかいのつもりで声をかけた定頼は、小式部の思わぬ機転に驚かされ、本来詠むべき返歌(和歌を贈られたら返す、これは当時のマナーです)も詠めないまま退散してしまった…というお話。

 

さて、この話だと定頼君、ずいぶんかっこ悪い役回りに思えますが…実は彼、当時小式部の恋人であったという話もありまして。しかも定頼の父はこれまた大変高名な歌人藤原公任さん。歌人として身を立てようとしながらも、偉大すぎる親と常に比較される…という境遇では小式部と相通じるところがあったのでしょう。とすればこのやり取り、恋人同士の他愛ない軽口からふと生まれた1エピソードなのかもしれません。

定頼は恋人小式部の歌才を証明し、その名声を広めるために、あえて自ら道化役を引き受けたのだ…とすれば、なかなかのイケメンぶりではないですか。

 

平安歌人の恋模様に思いをはせつつ本日はここまで。



投稿者: 大森 太郎

升形国語塾の代表をやってます。

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