「メディア」のお話(4/28現中-3)


さて、今回の授業を振り返りましょう。課題文は藤竹暁「事件の社会学」から

以下、一段落のみ引用します

文明批評家M・マクルーハン流にいえば、「メディアはメッセージである」。マス・コミュニケーションの手段、すなわちマス・メディアが人々の全体を覆い包んでいることが日常的な前提となっており、さらにマス・メディアが不断に「共有世界」を提供し続けていることも、また日常的前提となっており、そのこと自体を、人びとがマスコミに接する際に改めて問い直し、吟味する必要を感じなくなってくると、マスコミで報道されたことは、信ずることのできるものであるとして行動する「習慣」が形成されることになる。また、マスコミで報道することだけが、人々の視野のすべてとなってしまい、不幸にして、マスコミ報道から抜け落ちてしまった「現実環境」の部分は、あたかも存在していないかのような錯覚にとらわれてしまう。(藤竹暁「事件の社会学」より)

重要語句

メディア

小学館の精選版日本国語大辞典によると、

メディア《名》(英 media)〈ミディア・メジヤ〉 媒体。手段。特に、情報伝達の媒介となるもの。マスコミニュケーションにおける、ラジオ、テレビ、新聞、雑誌などの媒体をいうことが多い。

となっています。

mediaという語自体はmedium(中間的なもの)の複数形です。ある情報が伝達されるとき、その情報伝達経路の中間にあるものが「メディア」である、というふうに考えることができそうですね。

このような定義を踏まえると、「メディア」というのはかなり大きな広がりを持った概念であることがわかります。まず、新聞や雑誌に限らず、文字で書かれたものは全てメディアです。古代の碑文や石板・古文書から手紙・本、から、インターネットを介した電子メール・電子掲示板・SNSに至るまで、文字言語は情報伝達の手段です。

もちろん、音声言語もメディアです。テレビやラジオはもちろん、電話やインターホン、お店の館内放送などなど…肉声そのものだってメディアです。

身体言語(身振り手振り)もまた、メディアの一つです。

さらには「のろし」や「手旗信号」のような記号的伝達も一種のメディアである、と考えられます。

それだけではありません。私たちは様々な言語や記号によって情報を発信ないし受信する際、直接的にはそれらを自分自身の手足や目・耳などを介して行います。そういう意味では、私たちの身体・感覚器官もメディアの一種と言えます。

 

マス・メディア/マス・コミュニケーション

先ほどと同じく小学館の精選版日本国語大辞典によると、

マス・コミュニケーション《名》(英 mass communication 大衆伝達の意)新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画など、いわゆるマス⁻メディアを用いて、不特定多数の大衆に情報を伝達する手段。マスコミ

とあります。単純な言葉の意味としては「大規模な情報伝達」程度になるのですが…近年ではインターネットの発達により、誰もが気軽に情報を発信し、それが場合によっては極めて大きな規模で拡散する…というケースもしばしばみられます。そうした新たなメディアのあり方と区別するため、近年では通常マス・コミュニケーションと言えば「特定少数の発信者から、不特定多数の受信者に向けて、間接的・一方的に行われる、ある程度公共性を帯びた情報伝達」を指すことが多いようです。こうしたマス・コミュニケーションの媒体となるものが「マスメディア」ですね。

上記にあるように「新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画など」は古典的な意味でのマス・メディアです。一方でtwitterやFacebookなどのSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)は、時に極めて大規模な情報伝達となり得ますが、「発信者も受信者も不特定多数」であり、「情報伝達が双方向的で」あり、「公共的性格が希薄」である…というような性質を持ち、通常マス・メディアとはみなされません。

 

読解

さて、上記を踏まえて読んでいきましょう。第一文から

文明批評家M・マクルーハン流にいえば、「メディアはメッセージである」。

M・マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan)というのは世界的にものすごーく有名な学者さんですが、まあ今回は置いといて…次の「メディアはメッセージである」これが注目の記述です。「メディア」というものは情報伝達の「媒体」にすぎず、それ自体が「メッセージ=伝達内容」である。というのは、考えてみればおかしな記述です

こういう「おかしな記述」っていうの、読解ではとても大事なんですよ。他にも「疑問の提示」とか「簡潔すぎる記述」とか、いろいろありますが…こういう記述をポーンと放られると、「読む方は気になりますよね。「ちょっと、さっきの話、なんだったのよ!!説明してよ!!」って感じに。そんなふうに読者の気を引いたうえで、「よしよし、それというのはね…という感じで説明していく、こういうのは退屈させない文章を書くためのテクニックです。だから「気になる記述の後には、必ずそれについての説明があるはず」なんですよね。ここでは「メディアはメッセージである」とはどういうことか?というのを気にしながら読んでいきましょう。必ず説明してくれるはずです。

では続き

マス・コミュニケーションの手段、すなわちマス・メディアが人々の全体を覆い包んでいることが日常的な前提となっており、さらにマス・メディアが不断に「共有世界」を提供し続けていることも、また日常的前提となっており、…

文の途中ですが、ここまででいったん切りましょう。

ちょっと直接的な読解からは離れますが、あるもの、とくに「日常的に存在しているもの」の意味を考えるときには、「もしそれがなかったら」と想像してみるといいのです。「もしコンビニがなかったら」「もし学校がなかったら」「もし文字がなかったら」などなど。

まもなく4月も終わろうとしていますが、今月はどんな出来事があったでしょう。1日には「電力の完全自由化」が始まり、消費者が自由に電力会社を選べるようになりました。同じく1日には「障害者差別解消法」が施行され、障害を持つことを理由とした不当な差別的取り扱いを禁止することや、障害を持つ人に対して合理的配慮を提供すべきことが国や地方公共団体・事業者に対して求められるようになりました。他にも長年AKB48の中心として活躍してきた高橋みなみさんがグループを卒業、また2020年東京オリンピック&パラリンピックの公式エンブレム決定、三菱自動車の燃費不正問題、海の向こうではメジャーリーグが開幕し、前田健太選手やイチロー選手など、多くの日本人選手も活躍しています。そしてやはり最も大きな事件と言えば九州の大地震…

この一か月にこれだけの出来事があった、ということを我々は主に「マス・メディア」を通じて知っています。もし、マス・メディアをはじめとした遠距離メディアがなければ、私たちが知ることのできる情報は自身の肉体の周囲の、直接見聞きできる範囲のものに限られますし、その結果(四六時中一緒にいる相手でもなければ)、他の人が知るものとは全く異なるものになるでしょう。

マスメディアは、我々の世界認識における身体という限界を取り去り、より広い範囲を認識可能なものにします。そのような点で「マスメディアは身体の拡張である」とも考えられます(今回の本文には取り上げられていない内容ですが、このことはマクルーハンの代表的な主張の一つです)。また同時に、マスメディアは、物理的には離れた場所にいる人々にも、同じ情報をもたらす、という働きも持っています。ここで述べられているのはそういうことですね。

さて、次の節に移りましょう

 

そのこと自体を、人びとがマスコミに接する際に改めて問い直し、吟味する必要を感じなくなってくると、…

「そのこと」が指すのは前節、「マスメディアが人々の全体を日常的に覆い、共有世界を提供し続けていること」ですね。私たちが直接見聞きしたわけでもない情報を、みんなが同じようによく知っている…という状況を奇妙だとも不思議だとも思わなくなる、ということですね。

 

 

マスコミで報道されたことは、信ずることのできるものであるとして行動する「習慣」が形成されることになる。また、マスコミで報道することだけが、人々の視野のすべてとなってしまい、不幸にして、マスコミ報道から抜け落ちてしまった「現実環境」の部分は、あたかも存在していないかのような錯覚にとらわれてしまう。

段落最後の部分です。「また」でつながれていますのでこの部分は「並列」の関係になります。二つの内容を要約すると

  • マスコミで報道されたことは信ずることができるものであると人々がみなす
  • マスコミ報道から抜け落ちてしまった部分は、事実として存在していないと人々が思い込む

こういうことです。

 

さて、ここで改めて第一文をみてみましょう

「(本来は媒体に過ぎない)メディアはメッセージ(=伝達内容そのもの)である

最初は「おかしな記述」と思えたこの言葉も、ここまで読んでくれば十分理解できますよね。

「メディアは情報をただ単純に伝える媒体ではなく、伝達内容そのもの(何が事実で、何が事実でないか)を左右しうるものである」

これがこの段落の要点、ということです。

 

補足説明

出典文は30年以上前に書かれたメディア論です。その基本的な内容は現代においても十分通用するものですが、一方でメディアをめぐる状況が近年大きく変化していることも、当然踏まえておかなくてはなりません。その変化の最たるものは上記でも少し触れましたが「インターネットの普及」でしょう。インターネットの普及によって我々が日常的にアクセスできる情報の量は飛躍的に増大し、また「不特定多数に対する大規模な情報発信」や「不特定多数間の双方向的コミュニケーション」も容易になりました。

かつてマスメディアが独占していた「人々の全体を覆い包み、不断に『共有世界』を提供し続けているメディア」としての地位のかなりの部分を、いまやインターネットが占めています。

とはいえ、マスメディアの機能のすべてをインターネットが肩代わりする…というのは現実的ではありませんし、マスメディアとインターネットメディアは必ずしも対立するばかりではありません。(多くのマスメディアはwebページやSNSを活用しています)

「マスメディアを介して提供される情報が、現実そのものではない」こと、これは今や常識と言ってよいでしょう。そして「インターネットメディアを介して提供される情報」もまた、現実そのものではありえません。しかしながら現代を生きる我々は、身体が直接知覚しうる範囲をはるかに超える広がりを持つ「世界」の中に暮らしています。マスメディアやインターネットメディアがもたらす情報、それらが作り出す疑似的な環境の中で生きることが現代人の宿命なのです。

メディアとは何か、それはどのように機能しているのか、それらは何を可能にしていくのか、あるいはどのような危機をもたらしうるのか…そういった問題は、今後ますます重要性をましてくることでしょう。

 

とまあ、何となくきれいにまとめたところで本日はここまで、です。

 

 


投稿者: 大森 太郎

升形国語塾の代表をやってます。

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