関係の補い―「大和物語」より(4/19古上-2)


さて、今回のテキストは「大和物語」から。まずは全文を

 

 

大和の国にをとこ女ありけり。年月かぎりなく思ひてすみけるを、いかがしけむ、女(め)を得てけり。なほも飽(あ)かず、この家に率(ゐ)てきて、壁をへだててすみて、わが方にはさらに寄りこず。「いと憂し」と思へども、さらに言ひも妬まず。秋の夜の長きに、目をさまして聞けば、鹿なむ鳴きける。物も言はで聞きけり。壁をへだてたるをとこ、「聞き給ふや。西こそ」と言ひければ、「何事」と答(いら)へければ、「この鹿の鳴くは聞き給ふや」と言ひければ、「さ聞く」など答へけり。をとこ、「さて、それをばいかが聞き給ふ」と言ひければ、

  われもしかなきてぞ人に恋ひられし今こそよそに声のみを聞け

と詠みたりければ、かぎりなくめでて、この今の妻をば送りて、もとのごとくなむ住みわたりける。

 

順に読みながら、ポイントの説明をしていきましょう。

 

大和の国にをとこ女ありけり。

「大和の国」は現在の奈良県ですね。旧国名は大体どの辺…くらいは覚えておくとよいですよ。訳は

【大和の国に、男と女がいた。】でいいでしょう。

年月かぎりなく思ひてすみけるを…

「年月」は「長い間」、「思ふ」は多くの場合、「愛しく思う」の意味で使われます。そして「住む(マ四」は重要古語。現代語で言う「住む・生活する」のほかに、古文では「夫婦として過ごす」「(男が女のもとに)通う」という意味があります。最後の「を」は接続助詞、ここでは{単純接続」ないし「逆接」で取りましょうか。

とりあえずの訳は【長い間、限りなく愛しく思って通っていたが】という感じになりますが…

 

「述語」を起点に、「主語」をはじめとした関係を補おう

ちょっと古文を勉強した人なら「主語判定」が重要!!ということは当然頭に入っていると思うのですが…あんまり「主語!主語!」と強調するのも考えもの。日本語の文型で中心になるのは「主語」よりもむしろ「述語」です。述語にどのような語が来るか、によって、要求される分の要素というのは変わってくるのです。特にここでは「動詞」が述語になる場合が重要です。

例えば「走る」という言葉が述語となるような文を考えてみましょう。主語は適当に「僕」としましょうか。

僕が、走る。

とりあえずこの文、読むと何となく映像が浮かんできますよね。いつ、どこで、どんなふうに…という詳しいことはわからないけど、なんとなく「僕」が疾走している絵は想像できます。対して、次の例文はどうでしょう。

僕が、与える。

先の例文と比べて…どうですか。映像、浮かんできますか?

ここで「鮮明な映像が浮かんできます!!」という人はちょっとものの考え方を見直した方がいいかもしれません。「人の話を聞かない」とか「思い込みが強すぎる」とか、言われてないですか?

ちょっと語を加えてみましょう。

僕が、飼い犬に、餌を、与える。

さて、こうすると何となく映像が浮かんでくるんじゃないですか?いつどこで、どんな犬…というような詳しいことはわからないにしても、ね。

自動詞と他動詞

「走る」のような動詞を「自動詞」と呼びます。その語(と主語)のみで動作の全体像をとりあえず示せるような動詞が自動詞です。

対して「与える」は「他動詞」です。他動詞が表す動作は何か他のものへの働きかけを伴うため、働きかける「対象」や「目的」を示してやらないと、動作の全体像を示すことができません。

英語の勉強をする場合には「これは自動詞」「これは直接目的語(~を)を取る他動詞」「これは間接目的語(~に)を取る他動詞」…というように、一つ一つ覚えている人も多いと思います。でも古文は「日本語」ですから…日本語話者たるみなさんなら、そこまで覚えなくても「映像が浮かんでくるために必要な要素は何か」と考えればよろしい。

 

省略を補う

というわけで、述語の動詞の性質によって、その動作の全体像を示すために必要な要素が決まるわけですが…古文に限らず、日本語というのは非常に省略の多い言語です。文法的に必要な要素であっても、前後の関係から推測できそうならどんどん省略しちゃう。

現代文を読むのならそれでそんなに困らないんです。我々は現代の「常識」を共有しているので、省略されたもの推測も容易です。

例えば場面を「四月の高校」に設定して…

生徒A「化学は田中だよ」

この発言を見れば、おそらく多くの方が

「(新年度の)(僕たちの)化学(の授業担当)は田中(先生)だよ。」

という具合に理解するでしょう。

ところが古文の場合、我々は必ずしもその時代の「常識」を共有しているわけではありません。だからこそ、そうした「常識」そのものを学んでいくとともに、文の要素として必須のものは何か、ということも意識的に考えなきゃいけないわけです。

 

本文に戻ります。

「年月かぎりなく思ひてすみけるを…」の中の動詞は「思ひ」と「すみ」ですね。

「思ふ」は「愛しく思う」です。「僕が愛しく思う」だけでは何か足りませんね。ここは「誰を」の要素が必要です。ここまでの文章の中で登場した人物は「大和の国の男」と「大和の国の女」だけなので、解釈としては「男が女をいとしく思う」「女が男をいとしく思う」のいずれかに絞られますね。

さて、一方の「すむ」の方は「(男が女のもとに)通う」ですから、人物関係は明らかです。

そして「思ひ住みけるを…」のように、接続助詞「て」によってつながる部分は、通常意味的に連続する=主語をはじめとした関係はそのまま、となる場合が多い、ということを考えると、この部分の解釈は

【長い間、(大和の国の男は、女を)限りなく愛しく思って(女のもとに)通っていたが…】

とするのが適切でしょう。

ただしこの場合、後を読んでいくと、どうもこの「女」と「男」は同居していたようにも読めます。

この時代は男が女のもとに通う「通い婚」が主流ですが、「源氏物語」の光源氏の邸宅「六条院」のように、男性が大きな邸宅を構え、そこに複数の妻を迎える…ということもあったようです。今回のケースもそれと同様のものだと思われます。そういう場合でも、女性は邸宅内の一棟ないし部屋を自身の住処とし、そこに男性が「通う」というふうに考えると理解しやすいかな、と思います。

 

本当は他にもいろいろあるのですが…

ちょっとエントリが長くなっちゃいましたし、この辺にしときましょ。とりあえず全訳だけは載せておきます。

大和の国に男と女がいた。長年(男は女を)限りなく愛しく思って、(女のもとに)通っていたが、どうしたことであったか、(もとの女とは別の)妻を得てしまった。(男は)それでもまだ満足せず、(新しい妻を)この家に連れてきて、(もとの女と)壁をへだてて(新しい妻と)夫婦として暮らし、もとの女のところには全く寄ってこない。(もとの女は)「とてもつらい」と思うけれども、まったく(男に)妬み言も言わない。秋の長い夜に、(もとの女が)目を覚まして(あたりの物音を)聞くと、鹿が鳴いていたことよ。(もとの女は)ものも言わないで(鹿の鳴き声を)きいていた。壁をへだてている男が(もとの女に)「(今の鹿の鳴き声を)お聞きですか、西の方」というので、(もとの女は)「何事ですか」と(男に)返事をしたところ、(男は女に)「この鹿が鳴く声を(あなたは)お聞きですか?」といってそして、(もとの女は)「そのように聞いています」などと(男に)答えた。男は(もとの女に)「それで、それをどのようにお聞きになりますか」といったところ、(女は)

「わたしもその、あの鹿のように、ないて人(=あなた)に恋い慕われたものですよ。今でこそ(あなたとは)別の場所で声だけを聞いていますけれど」

と和歌を詠んだところ、(男はその和歌に)たいそう感動して、この今の妻を(実家へ)送り返して、元の通りに(もとの妻と)夫婦として暮らし続けたことだよ。

それにしても…「新しい妻」の都合が欠片も考慮されていないのはちょっとぞっとしますね…

 

では、また来週―

 

 

 

 


投稿者: 大森 太郎

升形国語塾の代表をやってます。

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